舒川新城里
"月明山"
西舒川郡は、百済熊津・泗沘時代の重要な軍事拠点だった。現在の長項地域にあたる伎伐浦を含む舒川一帯は、百済最後の王都である泗沘城を守る重要な関門と穀倉地域で、普段は広くて肥えた土地の豊かさを共有し、外敵の侵入がある時は、論山の得安城とともに軍事上マジノ線(Maginotline)としての役割をきちんとやり遂げた約束の地であった。この歴史的事実を証明でもするかのように、舒川郡内には今もなお、百済時代の山城が多く残っている。羅唐(新羅と唐)連合軍によって滅亡した百済を再び興そうとした百済復興運動の拠点と見られる韓山面の乾芝山城をはじめ、舒川邑に位置する南山城、庇仁面に位置する仏堂谷山城や観寂谷山城などが百済時代の山城として知られている。
これらの山城のうち、庇仁面に位置する観寂谷山城からは、東北部にある丘陵地帯や黄海西北部の安眠島まで広く見渡すことができ、また、黄海の西南部まで眺望できることから、一目で軍事的要衝であったことが推察できる。この山城は、月明山(289m)に位置し、この月明山は、庇仁面の名山として地元の人々が誇りに思う舒川の名山の一つである。標高はそれほど高くないが、頂上からは庇仁面一帯を見渡すことができ、舒川のリアス式海岸ととともに黄海の景色が西南から西北にかけて広がっている。